プロフィール

1970年横浜生まれ 誕生日は5月30日(ゴミゼロの日)

小学生時代は、学級新聞の「ダジャレコーナー」を担当。
毎日ダジャレを考える日々。しかし、授業に集中できない性格だったため、先生に
「あなたはクラスのゴキブリね」とひどい言葉の暴力を受けたが、
グレなかった。

中学生時代は、バスケットボールに熱中。毎朝誰もいないグラウンドで、トレーニングの日々。しかし、身長が150cmしかなかったため、レギュラーにはなれず。

高校生時代は帰宅部。身長は170cmを超えた。
偏差値は人に言えないほど低かった。
「モーニング娘。」の矢口真理が同じ学区の高校に通っていたが
(もちろん年代は違う)、彼女の高校の方が偏差値が15以上も高い。
2年生の時に観たテレビ番組「パパはニュースキャスター」に影響を受け、
将来の夢を「ニュースキャスター」に設定!自分の偏差値の低さは忘れていた。

浪人時代。最初のテストで0点を取り、大学進学をあっさり断念。予備校の隣のボーリング場で1日平均5ゲーム投げるも、腕は上がらず。

しかたなく、マスコミ系の専門学校に入ろうと考えていたある日のこと、テレビCMの「電車で通えるアメリカの大学」というキャッチコピーが琴線に触れ、アメリカの大学の日本校に入学。アメリカの大学なので誰でも入れたらしい。

20歳の時に同級生の彼女ができたが、同じ頃、人生を変える大事件が発生!ある講師の授業のやり方が気に入らず、抗議文を事務局に提出したところ、「こんな感情のこめられた恐ろしい文章は初めてみた」と言われ、「俺には文章の才能があるのかー。じゃー、ニュースキャスターよりもジャーナリストだな」と勘違い。夢を「ミリオンセラー作家」に変更。

大学生活も残り数ヶ月という時期に、「卒業できること」と「彼女が先生(イギリス人)に取られていたこと」が同時に判明。IWハーパーのボトルを握り締めながら、2週間くらい号泣の日々。しかし、“イギリス人”の授業は卒業するために休めないため、極限状態で授業を受けた。一方、“元彼女”もクラスメイトだった。地獄の意味を知った。

「このままでは俺の人生はダメになってしまう」と思い、慌てて就職活動。卒業する年の2月だった。バブルはとっくに崩壊。無謀な就職活動。とりあえず、川崎大師で厄払いした直後に、新宿NSビルで就職合同セミナーが開催されることを知り、手ぶらで参加してみた。私は夢を実現するために「編集」の仕事がやりたかった。しかし、合同セミナーは1つの会社を除いて営業職しか募集していなかった。その会社が「ユート・ブレーン」だった。入社式の2日後に大学の卒業式があった。卒業式に出席できたのは24人。4年前に1400人が入学したが、ほとんどが卒業できなかった。勉強を楽しめば能力が上がることを体験したことが大きな財産になった。



入社から半年は雑用の日々。当時はパソコンもなく、通信教育の採点(○×付け)をしたり、荷物を運んだり、コピーしたりしていた。そんな中、ユート・ブレーンで発行していたMR・MS向け情報誌「アプローチ」の存在を知り、「30歳までにこの情報誌の編集長になれたらいいな」と思う。

入社半年後。医薬分業の進展を見越して、調剤薬局向けの情報誌を創刊し、医薬品卸に配布してもらおうという構想が立ち上がった。その編集部員の一人になれた。月に1回原稿を書く仕事ができた。自分の書いた原稿が作品として数千人に読まれている事実を知り、感動した。さらに、「医薬分業ハンドブック」というタイトルの本の執筆・編集に携わり、本に名前が載った。嬉しくて両親に見せた。両親は喜んでくれた。

入社1年半後の25歳。信じられないことが起きる。「アプローチ」の編集長になることになった。原稿をろくに書けない自分を編集長にするユート・ブレーンの懐の深さに驚いた。ていうか、それでいーのか?と思った。「25歳で編集長」という肩書きはおいしかった。学生がつくるフリーペーパーではなく、第三種郵便物。業界内の地位が確立された情報誌だった。友人の勉強会に講師として招かれた。テーマは「編集長になっちゃった」。そのまんまだった。でも講演はウケた。70人くらい参加してくれた。この時期は異業種交流会に活路を見出していた。

27歳くらい。今度は、管理職向けの情報誌「ストラテジー」の編集長に就任。有名な人を執筆者に選ぶよりも、無名な人で日本の将来の医薬品業界に役立つ人を発掘することに力をいれた。うれしいことに、多くの執筆者がその後有名になり、今や医薬品業界の中心的な人物になっている。昔から人を見る目には自信を持っていた。他にも、他業界のセミナーなどに数多く参加し、勉強し、医薬品業界に数多く提言を投げかけた。「ストラテジー」は廃刊してしまったが、編集長時代に学んだことは非常に大きな財産になっている。この時期に本を出したが全く売れず・・・。

30歳くらい。好きでなったジャーナリストの仕事だったが、何か不満だった。そんな時、知人から「コーチングを勉強しているので、実験台になって欲しい」と言われた。興味があったので即OK!月3000円×3ヶ月で契約した。コーチングを進めていくうちに、自分の奥底にある欲求が浮き彫りになってきた。自分は「人に良い影響を与えること喜びを感じている」ことを感じた。ジャーナリストは個人に深い影響を与えられないことを実感していた。そこで、コンサルタントを目指したいと思った。当時の社長に「コンサルタントになりたい」と直訴した。


31歳くらい。コンサルタントを目指すようになってから、さらに自己投資の額が増えた。将来にプラスになりそうな物事に敏感になるようになった気がする。勉強仲間が勤務する研修会社の話に興味を持ち、参加することにした。その研修とは、ジェームス・スキナー氏の「成功の9ステップ」だった。コンサルタントを目指したばかりの人間が、いきなり(外国人だが)日本一のコンサルタントに出会ってしまった、と思った。さらに驚いたのは、カリスマ・コンサルタントの神田昌典さんが、この研修を受けていたことだ。私は神田さんと「ミッション・ステートメント」(人生の目的)※を宣言し合った。他にも小阪裕司さんなど、著名なコンサルタントも参加していたのだが、勉強不足の私は神田さんしか知らなかった。この話をジェームスさんや神田さんのファンにすると、必ず羨ましがられる。

※<川越満の人生の目的>

私の人生の目的は、多くの知識を得ることによって自分の表現力を高め、人々に良い影響を与え、最高の処方せんを出し続けることです!

“コンサナリスト”誕生。コンサルタント=中小企業診断士という単純な方程式をもとに、資格取得のために日曜日に学校に通うようになった。これは失敗だった。貴重な休日をつぶしてしまったことに加え、マーケティングや経営戦略の授業の内容のレベルが低かった。顧客は資格でコンサルタントを選ぶわけではない、ということを気づかせてくれる機会にはなった。そして思った。矢口真理(モー娘。)よりも偏差値の低い高校に通っていた自分が資格なんて取っても意味がない。もう、オンリーワンになるしかない!と。そして生まれたのが、従来の仕事であるジャーナリストと目指したいコンサルタントをブレンドした“コンサナリスト”という肩書きだった。

世界にひとつだけの肩書きが生まれた頃、人生を変える出会いがあった。知る人ぞ知るマーケティング・コンサルタントのIさんが自宅でプライベートレクチャーを開催するという話をメルマガで読み、申し込んでみた。Iさんは年下だったが、稼ぎまくっていた。

32歳。Iさんはマーケティング・コンサルタントとして有名だったが、ほとんど働いている様子はなかった。家賃収入だけで普通のサラリーマン以上の収入を得ており、他にも多くの起業家を育て、インカムゲインを得ていた。彼は実名を伏せているので、これ以上は書けない。彼と出会い、目からウロコの考え方を全身で浴びたおかげで、これまで勉強してきたすべての「点としての知識」が見事に線でつながった。

33歳。どういう商品をつくり、どういうマーケティングをすればモノが売れるか、ということがわかってしまったらどうなるか? 当然のごとく、実験したくなる。自分で書いた本を自分のマーケティング戦略で売ることにした。その商品が「制度知識で他社MRに差をつける33のQ&A」だ。2003年12月20現在、1万2500冊以上売れている。MRは5万7000人しかいないので、市場の20%に読まれた計算だ。

・・・・これからもがんばります!


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